さて保元の乱で後白河院側が襲撃し、崇徳院の居館のあった鴨川の東岸、春日河原に寿永三(1184)年、崇徳院の霊を祀る崇徳天皇廟である粟田宮が設置されています。
しかし、室町期の応仁の乱の騒乱などで廟は荒廃、廃絶。唯一本尊となる地蔵尊のみが修験者(霞衆)の総本山である聖護院の広大な森に移動され、安置されたと伝わります。当時の京都は地蔵信仰と六地蔵巡りが盛んで、崇徳院ゆかりの一帯にも多くの地蔵の野仏が安置されていたようです。
現在では京都大学・京大病院の敷地になっているこの地で大正時代、京大理学部建設の折に五十体ほどの古い地蔵菩薩の石像が出土しました。
工事人足たちが「地蔵さんじゃ漬物石にも使えない」と、路傍に放り出して休憩の椅子代わりにするなどの粗雑な扱いをしていたところ、やがて工事請負業者の社長や人足、建物の大工の棟梁、出入り商人、大学の建築部長などが相次いで急死する事態が発生。誰ともなく「石地蔵をぞんざいに扱うから祟られたのだ」と噂が広がり出したのです。
有名な稲荷下げ(民間の霊能力祈祷師)に伺いを立てると、「地蔵様の本地仏である大日如来が大変なお腹立ちで、このままではなお六人の命が取られる。それから地蔵には霊力のある狸の霊も憑いている(崇徳院の死没地讃岐は狸霊の本場です)ので、すぐに地蔵菩薩と狸を丁重に祀り、毎日供物を欠かさないよう」と諫言されます。
しかし、それを聞いた大学側の教授は非科学的だと取り合いませんでした。するとその教授が4~5日後に突然亡くなってしまいます。
こうなってくると大ごとだと、大学側も出土した石地蔵を全て並べて祠を設置し、地蔵盆の八月二十八日には盛大に例祭を行うこととしました(『天狗の面』)。
それに先立つ明治末期、現在京大理学部キャンパスのある聖護院吉田村の畑で石地蔵が出土、その地蔵を庭石代わりにしていたところ、その一家全員が亡くなるという出来事が発生。大正末期に地蔵は京大病院敷地内に祀られました。
これらは現在、京大病院と京大医学部の敷地にそれぞれ「祟り地蔵」として祀られています。そしてそれらのすぐとなり、東大路通を挟んだ聖護院の一院家である積善院凖堤堂には、崇徳院地蔵、別名「人喰い地蔵」が祀られています。「すとくいん」をもじり、いつしか人の命を喰らう「ひとくい」へと変質したと伝わります。これらの地蔵は崇徳院を祀る崇徳天皇廟、その信仰圏の民間の地蔵が散逸し埋もれたものだと考えられます。
病院や学校という怪談が生まれがちなシチュエーションということもあるのか、戦後にも猟奇的な事件が発生したり、怪異現象の起こる場所として有名でもあります。京都の人々にとっては崇徳院はなお生々しい恐ろしい祟り神「御霊」として、恐れられているのです。
けれどもその実像は、残された御製の歌の数々、そして薫陶を受けた僧・西行の挽歌などを見ても、並み外れて繊細で心優しく、また才に恵まれた魅力的な人物であったと読み取ることができます。
本当に怖いのは、排除した者を怨霊として悪鬼化し、遠ざける側の猜疑心なのかもしれません。
(参考・参照)
保元物語 日下力 角川書店
天狗の面 (春陽堂文庫 ; 大衆文學篇) - 国立国会図書館デジタルコレクション 崇徳院地蔵 - 源平史蹟の手引き